(沼垂の街をランニング その1)駅前楽天地-旧新潟駅前通りをランニング
(プロローグはこちら)
旧新潟駅から沼垂駅跡を目指すランニングは、代ゼミや弁天公園に面した通りからスタートです。
そのまえに少し寄り道。(こんなことしているからなかなか終わらない)
代ゼミの横の道に入ってみます。
すると、古びた雰囲気の飲み屋街が出現します。
昭和の雰囲気プンプン。「駅前楽天地」です。
いかにも年季の入った雑居ビルが立ち並び、飲食店の看板が飾りつけられています。
「駅前」と銘打ちながらも、今の新潟駅からは少し離れたところに位置しています。以前からなんとなく違和感を感じていましたが、「旧新潟駅前」と考えればしっくりきます。ほんとに目と鼻の先ですからね。
もっとも、この駅前楽天地がいつからあったのか(新潟駅の移転前からすでにあったのか)、楽天地という名前の由来は何だったのか、そういったことはちょっと調べてもよくわかりませんでした。
駅前楽天地が、昭和39年には存在していたことは間違いありません。
昭和39年とは、新潟地震があった年です。
この地震の影響で、駅前楽天地のあたりでは地盤沈下が発生しました。
上の写真をよくみると、右側のビルが少し傾いているようにみえませんか。これは目の錯覚でも何でもなくて、このときの地盤沈下によるものだというのです。
つまりこのビルの傾きは、駅前楽天地が新潟地震を経験した証なのです。
新潟地震の爪痕は、今でも新潟市内のあちらこちらに残っています。
この駅前楽天地の地盤沈下の他に、昭和大橋のゆがんだ橋脚などが有名ですね。
閑話休題。
駅前楽天地からふたたび代ゼミ前に戻ってきます。
この代ゼミや弁天橋の周囲には、線路の名残と思える道はみあたりません。
弁天公園に目を向けると、レインボータワーが見えます。
万代どころか新潟市のシンボルとして昭和48年からずっとそびえているタワーです。
このレインボータワー、残念ながら平成30年8月より解体工事が始まりました。
新潟地震にも耐えうる耐震性を備えていましたが、東日本大震災の際に一部破損、運行が中止になった状態が続いていました。
それでも一時は運行しなくても塔体は残すという話もあったのですが、予期せぬ大きな震災が起こったときに安全を担保できないという理由から、平成30年8月より解体工事が始まってしまいました。新潟市民としては非常に残念なことですが、しかたないのでしょう。
さて、このレインボータワーを眺めたときの右手側には、弁天公園と流作場五差路とを結ぶ広めの道路があります。
中央分離帯が設置されたこの道路、かつては旧新潟駅の駅前通りでした。
この通り沿い、つい最近まで長屋や古い酒屋さんなんかがあったように記憶しています。今思うと、旧駅前通りの名残の建物だったのかもしれません。
それがいまや、ビルや駐車場が立ち並び、並木道や中央分離帯まで設置された立派な道路に変わっています。かつて駅前通りだったという面影は、いまやまったくありません。
この通りから流作場五差路に入ると、すぐに「萬代橋」と書かれた木製の柱が目に飛び込んできます。
初代・二代目の萬代橋は、ここから始まっていました。
現在の萬代橋の長さは306.9m。当時は実に782m。当然万代シテイは川の底でした。
ラブラ万代と新潟テレコムビルとの間に地下通路(万代クロッシング)があります。
ここを工事していた際、初代萬代橋と二代目萬代橋とを支えていた基礎杭が発掘されました。
橋があった当時そのままの場所に、その杭が3本だけ展示されています。まさにここが川の底だったことがうかがえます。
ということで、旧新潟駅を出て旧駅前通りを抜けると、すぐに萬代橋につきあたっていたということになります。
つまり、旧新潟駅は信濃川沿いに存在していたのです。
萬代橋を渡れば、そこは今で言う新潟島(当時はもちろん関屋分水なんてなかったので、「島」ではありませんでしたが)。
旧新潟駅は、沼垂から新潟に向かうための玄関の役割を果たしていたのです。
(既出の大正3年の新潟市地図を一部拡大。沼垂駅-旧新潟駅の路線、旧新潟駅と駅前通り、二代目万代橋の位置関係がよくわかります)
さて、旧新潟駅前通から歩道橋を使って流作場五差路を渡り、万代町通りに入っていきます。ラーメン二郎とかたい焼きで有名なあま太郎とかがある通り。
この、あま太郎の前のY字交差点から、かつて線路だった道が始まります。
ということで、グーグルマップさんによる今回の関係図です。
(不定期に続く)
(ようやく線路入り口・・・)(一体いつまで続くのか)